東洋のアルカディア

イザベラ・バード  東洋のアルカディアだ ヘンリー・ダラス  東洋の平和郷というべきだ

『日本奥地紀行』十八信には川西町の諏訪峠から「米沢平野は実り豊かに微笑みする大地であり、アジアのアルカディヤである」と書いています。(明治11年7月)
チャルズ・ヘンリー・ダラスは明治6~8年に米沢興譲館洋学舎(明治4年設立)の教授に招へいされた英国人宣教師です。

明治11年、英国人女性であるイザベラ・バードは横浜で雇った通訳一人を連れて東京から北海道を旅しました。妹に送った旅行の手紙(第一信~第四四信)は、ヨーロッパで『Unbeaten Traks in Japan』(日本の未踏の地)として1880年に刊行され、アジアや日本に関心を持つ人々に盛んに読まれ「英語で書かれた最善の日本旅行記」と高い評価を受けました。


イザベラ・バードの『日本奥地紀行』の訳者は 小松町(現川西町)出身の高梨健吉氏です。 バードは明治11年7月、小松町を訪づれています。 高梨健吉氏は戦後間もなく、古本屋で偶然にも バードの原書を手にしたといいます。

『日本奥地紀行』(平凡社)の初刊は昭和48年(1973)です。

   
川西町フレンドリープラザ       


高梨健吉氏は2010年に没しましたが、慶応大学名誉教授です。
日本における英学史の重鎮で、「明治開花期の英語」の研究者としても
知られているそうです。上写真の白いスクラップブックは氏がストックした
川西町の記事です。氏の故郷への思いが伝わってまいります。



             金沢正脩 イザベラ・バード『日本奥地紀行』を歩く、より

バードは7月13日(土)小松(現川西町)に来て2泊し15日(月)に小松を出立しています。
14日(日)は養蚕農家を見学し、驚くほど詳細な記録を残しています。高梨訳ではこの部分は出て来ません。

町の中心にあった金子重左衛門宅(現 ニシエイジュ石油)に泊まったのではないかといわれています。出立するときには人口三千の半数以上の大勢の人が押し掛けました。バードの乗った馬が進むと総勢がずずっと動き出すので、馬が興奮して暴れ出しました。4人の警官が飛び出してきて馬をつかまえてくれました。その場所は米沢警察署の小松分署(現 十印菓子店)前だそうです。


越後米沢十三峠街道の険しい山道を抜けて、飯豊町と川西町の境にある
諏訪峠から米沢平野全体(置賜盆地)が見渡せるようになります。
(山形新聞)



井上ひさしも書いています
■故郷は日本のアルカディア
 僕は昭和九年(1934)山形県の田舎町に生まれました。山形南部の米沢市からさらに三里ほど離れた東置賜郡羽前小松町(現在の川西町)がそこです。人口六千の小さな町でしたから、ご存じの方はそうはいらっしらないでしょうね。
 でもこの小さな町が明治初年、いち早く世界に紹介されているんですね。
明治の初め、イザベラ・バートという英国人女性が日本中を旅して旅行記を出版します。
この中で、置賜盆地のことを「日本のアルカディアだ」と書いているんですね。アルカディアというのは「理想郷」という意味だったと思いますが、きっと新潟から山をいくつも越えてくたびれはててわが町にたどりついて、ホッとしたあまりそんなことを言ったのでしょうね。「これぞアルカディアだ」と。まあ、のんびりした米作地帯です。(『本の運命』より)

また、置賜盆地については(『下駄の上の卵』より)
東を奥羽山脈に、北から西にかけてを朝日連峰に、そして南を飯豊山と吾妻山とに塞がれた置賜盆地に、・・・・


 

明治11年の最初の来日はバード47歳でした。世界各地を旅行し紀行記を刊行しています。その後日本には五度来日しています。最晩年はアジアの貧困や孤児に関心を持ち、日本での孤児院設立に尽力しました。
イザベラ・バードに関する著作やインターネット情報はたくさんあります。最近ではコミック版も出ています。
今日の状況を考えると、「原題 日本の未踏の地」を昭和48年以降は日本語で読めるようにした高梨健吉氏の功績は大なるものであると思います。



イザベラ・バードは米沢平野の知識を前もって自国のイギリスで持っていました。。
明治6~8年に米沢興譲館洋学舎の教授に招へいされた英国人チャルズ・ヘンリー・ダラスが書いた「置賜県雑録」という地誌を読んでいました。
バードは医者のすすめで転地療養のために日本に来ましたが、強くすすめたのが「種の研究者」ダーウィンです。
バードは横浜港に上陸しまた。横浜外国人居留地のヘボン博士宅に逗留していたので、ダラスと交流があったともいわれています。ちなみにダラスは米沢牛の恩人、ラ・フランスを当地にもたらした人といわれています。

高梨健吉氏訳本では、バードが函館から船に乗って東京に帰った所で終わっていますが、広島・京都・伊勢・大阪神戸まで旅しています。
時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行」(講談社)には以西が訳されています。

バードは同志社の新島襄・八重とも面会しています。
・・・・・・
 わたしは新島夫妻の気持ちのよい和風の家へお茶をいただきに行きました。お茶はテーブルに載っており、わたしたちは椅子に座りました。・・・
 新島氏は士族階級の人です。アメリカで任命されたキリスト教牧師で、京都カレッジで自然科学等を教えています。新島夫人は[同志社]女学校で裁縫を教えており、和服を着ています。
 氏の書斎はいかにも文学者という風情で、壁は英米で出版された複数分野の古典文献で埋まっています。氏は多大な影響力を持つ地位にある人とつきあいがあり、氏自身、海外で日本政府のために働いたことがあります。・・・・・(時岡敬子訳による)


ダラスは英米人の日本研究誌「日本アジア協会紀要」に「米沢方言」(明治8年)、「置賜雑録」(明治9年)を発表しています。尚「置賜雑録」は「置賜収録」とも訳されます。バードは「日本アジア協会紀要」を携帯して日本奥地旅行をしています。

穀物や果物が豊富で、地上の楽園のごとく、 人々は自由な生活を楽しみ東洋の平和郷というべきだ。 ・・・土地は非常に肥沃で、米を多量に産出し、西部海岸まで(注 酒田) 移出できるほどで、そこから大量に函館へ回送されると言われている。 小麦・大麦・じゃがいも・欧州種の人参・かぶが栽培されている。 柿・ぶどう・くるみ・栗が豊富で昨年(1874)は小規模ながら ワインの醸造が試みられた。最後に何よりも重要なことだが、 桑の木が全域にわたりよく生育しており、・・・盆地北西部隅は 全く非の打ち所がないほど見事で、・・・蚕卵は全県で 作られているが、北西部の下長井のものが、最も良質である。  ダラス「置賜雑録」より

日本奥地紀行に描かれている小松町
高梨健吉訳 『日本奥地紀行』平凡社東洋文庫

【第 十 八 信 】より

 手ノ子から小松まで歩いて六マイルであった。
小松は美しい環境にある町で人口は三千、綿製品や絹、酒を手広く商売している。
私が小松に入ると、私を見た最初の男が急いで戻り「はやく! 外人が来るぞ」という意味の言葉を叫んだ。
そこで仕事中の三人の大工が道具を投げ出し、街路を大急ぎで走りながらこのニュースを大声で伝えた。
 それで私が宿屋に着くころまでには、大きな群衆が押しかけてきた。
屋敷を流れる川にかかっている石橋を渡り、奥に着くと大きな部屋があった。片方はすっかり明け放して庭に面している。庭園には金魚を泳がせてある大きな池や、五重塔、盆栽、その他いつもの小型の装飾の造作があった。しかし私のプライバシーはなかった。群衆は後ろの屋根によじ登り、夜までそこにじっと座っていたからである。

 これは大名の部屋であった。柱や天井は黒檀に金泥をあしらったもの、畳はとてもりっぱで、床の間は磨きたてられており、象嵌細工の書机や刀掛けが飾ってあった。槍は九フィートの長さで、漆塗りの柄にはあわび貝が象嵌してあり、縁側にかけてあった。手水鉢はりっぱな象嵌の黒塗りのもので、飯碗とその蓋は金の塗り物であった。

私は小松で日曜日を過ごしたが、夜は池の蛙が鳴いていたのでよく休めなかった。
この町には、他の多くの町と同じように、白くて泡のようなお菓子だけしか売っていない店があった。それは非常に賞玩されている金魚に与えるためのもので、家の女や子どもたちは一日に三度庭に出て金魚にその餌を与える。

 私が小松を出発するとき、家の中には六十人もおり、外には千五百人もいた。塀や縁側、屋根さえも満員であった。日光から小松まで例外なく牡馬が用いられてきたが、ここで初めて恐ろしい日本の駄馬に出会った。
私が馬に乗ると、群衆がついてきた。進むにつれ群衆は増し、下駄の音や群衆の声に驚いた馬は、ついに頭につけた綱を切った。馬は主に後ろ足で街路を駆けて行き、声をあげ、前足で乱暴に打ちまくるので、群衆は右へ左と散った。四人の警官が出てきて馬をつかまえた。しかしまた長い街路があったので、群衆はまた集まってきた。
振り返ると、伊藤(通訳)の馬は後ろ足で立っており、伊藤は地面に落ちていた。獣のような私の馬は、どんな溝も飛び越え、歩いている人々に向かって歯をむき出して飛びかかり、そのやじゅうのような動作には、馬によく慣れている私もとてもかなわなかった。
*この後に「アジアのアルカデャである」の文章が書かれている。

 美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。彫刻を施した梁と重々しい瓦葺の屋根のある大きな家が、それぞれ自分の屋敷内に立っており、柿やざくろの木の間に見えかくれする。蔦草を這わせた格子細工の棚の下には花園がある。ざくろや杉の木はきれいに刈り込まれて高い生垣となり、私的生活を守っている。私たちが通過したり傍を通った村々は、吉田、州島、黒川、高山、高滝であったが、さらにこの平野には五十以上の集落の姿が見えて、ゆるやかに傾斜する褐色の農家の屋根が林の間からのぞいていた。

(おもいで館友の会 半田守孝 記)


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