全訳「日本奥地紀行」

イザベラ・バードの「UNBEATEN TRACKS IN JAPAN」(日本の未踏の地)は、
1880年にロンドンとニューヨークで「初刊本二巻」として発売され一ケ月で
3刷するほどのベストセラーとなりました。
1885年には初版の内容が約半分に省略された「省略普及版」が発売されてい
ます。版を重ねるうちに「省略」は消され「普及版」となりました。
高梨健吉氏はこの「普及版」を「日本奥地紀行」として翻訳しました。
「普及版」は主に日本の宗教とキリスト教比較、日本の政治制度や産業など
が略されているといわれます。
全訳「日本奥地紀行」で小松を読む 『時岡敬子訳 イザベラ・バードの日本紀行』
2008年に「時岡敬子 訳」で「イザベラ・バードの日本紀行」(講談社)とし
て「全訳」が読めるようになりました。
高梨訳「普及版」では、主に小松町吉田の養蚕のことについては省略されていました。

時岡敬子訳本は、京都、伊勢、大阪、神戸への旅が加わり第五九信まで、最後に日本の現況が入っています。日本の現況はさながら時の大英帝国の意向を反映する日本諜報報告の感があります。
小松で養蚕農家をつぶさに書いているのは大英帝国の絹の貿易事情とダラスの「置賜雑録」の、「養卵は下長井が最も良質である」という報告を裏付けるためと思われます。
ちなみに、バードが小松に来た明治11年はその前年に日本最後の内戦、西郷隆盛の西南戦争が起き終わった年です。バードは会津若松、米沢、鶴岡、酒田は訪づれていません。
欧米化の開花政策は都市部では進んでいましたが、地方にはその波はほとんど及んでいません。江戸の面影そのままだったと思います。


 日本が他国に供給する製品には生糸、まゆ、茶、米、銅・・・最初の四品目は主要輸出品になっている。・・・まゆが1400万ドル。日本の平均輸出額は二五五〇万ドルであった。・・・日本はまゆを供給することでフランスとイタリアの養蚕農家にきわめて重要な貢献をしている。これはフランスとイタリアの養蚕が病害でほぼ壊滅状態に陥ったときのことで、一八六十四年にそのピークに達した。国際貿易の利点がこれほど顕著な例はほかにめったに見られない。というのも、他の地域から必要なまゆを充分に調達できるかというと、それは疑問であるからで、この緊急事態が起きたのは日本が開国した直後のことである。・・・日本の海外貿易の将来は生産物の増加にかかっている。養蚕は通常の農業に次いで日本の主要産業となっており、政府は賢明にも生産される生糸の品質改良に多大な関心を寄せてきた。政府はまた他の産業を促進したいという称賛に値する願望を示しているが、国にとってある程度自然な産業しかこのような奨励による利益を得られないことを必ずしも理解はしておらず、また他の若くて干渉主義な政府と同様、健全な企業の育成には自由競争が不可欠であること、特権と独占は貿易の発展の妨げにしかならないことにまだ気づいていない。日本の住民は本質的に農民で、農民をあわてて製造業者に転向させようとするのはたしかに間違いである。

第二三信 上山にてより(抜粋) 

 
 手ノ子から六マイル[約9.6キロ]歩いてわたしたちは美しい場所にある小
松に着きました。人口三〇〇〇、綿製品、絹、酒の取引が盛んな町です。小
松に入って最初に出会った男性があわててうしろを振り返り、一軒目の家に
「早くおいで、外国人がいるよ」という意味の言葉をかけました。仕事中だ
った大工三人が商売道具を放り出して、着物を引っかける暇もあらばこそ、
ニュースを大声で伝えながら大通りを駆けてきたので、宿屋についたときに
はおおぜいの野次馬がこちらへ押し寄せてきた。宿屋の表はみすぼらしくて
期待はもてそうにありませんでしたが、この家を貫いている小川に架かった
石橋を渡って裏に行くと、長さ四〇フィート[約12.2メートル]、高さ一五フ
ィート[約4.6メートル]の部屋がありました。この矮小化した木々をはじめ
日本の庭につきもののミニチェアの飾りがたいがいそろっていますが、野次
馬が裏手の屋根に上がり夜までそこにじっと座っているので、プライバシー
は皆無です。

 この二つの部屋は大名用だったものです。柱と天井は漆黒と金色で、畳は極
上のものが使ってあり、磨きこまれた床の間には象嵌細工の文机と刀掛けが
あります。柄に貝殻を象嵌した漆塗りの長さ九フィートある槍がベランダに
掛かっています。洗面器は象嵌をほどこした上質の黒い漆塗りのもので、ご
はんを盛るお椀とそのふたは金の漆器です。
 
 ほかの多くの宿屋がそうであるように、この部屋にもここに滞在してその
値打ちを高めてくれた首相や知事や著名な将軍の名を大きな漢字で記したり
、同じように詩歌の一節を書いたりした掛物が掛かっています。わたしも何
度がこのように飾るものを書いてほしいと頼まれました。日曜日を小松で過
ごしましたが、池の蛙が夜鳴いてうるさく、あまり休息とはなりませんでし
た。小松にはほかのたいがいの町と同じように、白い、泡のような見かけの
お菓子しか売ってない店があり、これはとても珍重されている金魚のえさで
、毎日三度、この家の女性たちや子供たちが庭に出てきて、これを与えてい
ます。

 いたるところで女性から伊藤を介して受けた(半田注:横浜で雇った通訳兼
従者。伊藤はたしか二十歳前の青年です。バードと旅した後は歴史の中に埋
もれてしまった人です。宮本常一は、「開花期の横浜にはこのような独学で
英語を覚えた青年が数多くいたと」といっています)、イギリスのさまざま
なことについての質問にはとても驚かさせられました。イギリス式の慎み観
念でいけば、非常に失礼な話題となりますが、日本の女性のモラルをこのよ
うな話題や、わたしたちのそれとは異なるいろいろな習慣で判断しては、ま
ったく不公平になるでしょう。わたしの受けた印象は、既婚夫人は貞節で、
男性はその反対、また子どもたちは幼いころから節度のない話を両親から聞
いており、イギリスの子どもたちの最大の魅力の一つである、あの純真無垢
なところを持たずに成長してしまう、いうものです。


 絹はどこにでもあります。絹はどの家でも最上の部屋に陣取り、だれのお
しゃべりの話題にもなります。この地方は絹を生きがいとしているようです
。多くの村では、むしろに広げてあるまゆを踏み潰さないよう、用心して歩
かねばなりません。むしろに広げてあるまゆはアーモンド糖菓のようにおい
しそうに見えます。宿のご主人がわたしを養蚕農家に連れていってくれまし
た。そこでは卵と絹の両方を生産しています。[蚕の卵は日本から年額三〇
〇〇万ドルに達する量が輸出されています。]

 卵用のまゆは浅いざるに広げてお くと、一二日から一四日でさなぎが見か
けの冴えない白い小さな蛾に変わり ます。ついで一〇〇匹から一三〇匹の蛾
を厚紙一枚に並べておくと、紙は半 日で、卵に覆われるので、この紙を秋まで
ひもで吊り下げておきます。秋に これを箱詰めし、翌春、卵が孵化します。
この地方で最上の種紙は一枚三銭 半で売れます。ここでの養蚕の時期は四月
はじめに種紙を吊ることから始ま ります。
おおよそ二二日間で蚕があらわれます。女性たちはこの蚕をとても
気をつけて世話し、盆ざるに紙を敷いた上に種紙を置いて、卵がすべて孵化
するまで三日間毎朝羽根で撫でます。

 桑の葉は細かく刻んだ上ふるいにかけて葉脈を取り除いてから、きび殻と混
ぜて蚕に食べさせます。蚕は種紙からござの上に置いた清潔なざるに移され
ます。四度の活動休止を経ますが、一度目は孵化後10日間にあります。残
りの三度の活動休止の間隔は六日から七日です。活動休止のときは最大限に
気を配って餌を調合します。餌を与えるのはふつう日に五度ですが、厚いと
きは八度になることもあり、また蚕が大きくなれば、餌も粗くなって、四度
目の休止活動の後は葉も丸のままあたえます。蚕が空腹でもなければ満腹し
ている状態でもないよう、餌の量はきわめて細かく計ります。

 環境を清潔に、また温度を一定に保っておくことが必要で、そうしないと病
気が発生します。夜も昼もひっきりなしに世話しなければならないので、シ
ーズン中、女性はほかのことがほとんどできません。四度目の活動休止のあ
と、蚕はまもなく餌を食べなくなります。糸を吐く場所を探しはじめるのを
見られたら、最良の蚕を選んで藁でできた台の上に置いてやります。すると
蚕は三日かかってその台の上にまゆをつくります。絹地を織るための蚕は盆
にならべて三日間天日に当て、これによりさなぎを殺してしまいます。

 ほとんどの家でも、私が通りかかると、女性がせっせと絹糸を巻き取って
います。この過程では、まゆをお湯につけます。容器は銅のたらいを用い、
縁に環にした馬毛かごく細い針金製のフックがついています。最上の絹の場
合、五個または六個のまゆの糸を環に通し、左手の第一指と第二指で糸巻に
たぐります。その間右手は糸巻のハンドルを回します。たいへん熟練を要し
ます。これに用いる水はとてもきれいでなければならず、必ず使う前に漉し
ます。そうしなければ、絹の光沢が失せてしまうのです。

 
 わたしが小松を発つときは、家のなかにはゆうに六〇人、外には一五〇〇
人の人が集まり、塀にも、縁側にも、いや、屋根の上すらすし詰めとなりま
した。日光から小松まではもっぱら雌馬が使われていましたが、ここで初め
てわたしは日本の恐ろしい荷馬に出会いました。見かけのひどく荒そうな馬
二頭が戸口におり、首が完全にアーチ型になってしまうほど頭を低くしてつ
ないであります。わたしが乗ると、人々があとをついてきましたので、馬は
下駄の音とおおぜいの人間の話し声とに驚き、頭をつないであった綱を切っ
てしまいました。
驚いた馬子が馬を放してしまい、馬はおもむろに後脚で立ちつつ、いななき
ながら通りを駆けて前脚を乱暴に突き出したので、野次馬は左右に散りまし
た。馬が警察署の前を通りすぎたとき、警官が四人出てきて馬を捕えたもの
の、野次馬はまた集まってきました。なぜならもっと長い通りがあって、そ
こをわたしの馬は同じように進んでいったからです。あたりを見回してみる
と、伊藤の馬も、後脚で立ち、伊藤は地面に落ちていました。わたしの馬は
溝という溝を飛び越え、歩いている人という人を歯で攻撃し、まるで野生の
馬のように振る舞うので、わたしがこれまで覚えた馬の異常な知識に関する
知識を総動員しても追いつきません。赤湯に着くと馬の市がありましたが、
どの馬も頭を低くして杭につないであり、鳴くか後脚を振り回すことしかで
きません。・・・・

 
 好天の夏の日でしたが、とても暑く、会津の雪を冠した連峰も陽光を受け
てぎらぎら輝き、あまり涼しくは見えませんでした。米沢の平野は南に繁栄
する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉の町、赤湯があって、申し分
のないエデンの園で、「鋤ではなく画筆で耕されて」おり、米、綿、とうも
ろこし、たばこ、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、瓜、きゅうり、柿、あんず
、ざくろをふんだんに産します。微笑みかけているような実り豊かな地です
。繁栄し、自立した東洋のアルカディヤです。充分ににある土地はすべてそ
れを耕し、自分たちの育てたぶどう、いちじくざくろの木の下に暮らし、圧
迫とは無縁—東洋的な専制のもとではめずらしい光景です。それでもなお
大黒は筆頭の神さまで、物質的な幸福が願望のたったひとつの的なのです。

 美と勤勉と快適さの魅力的な地で、山々に取り囲まれ、明るい陽光を反射
する松川に灌漑されています。いたるところに豊かで美しい農村があり、彫
刻をほどこした梁とどっしりした瓦屋根の大きな家々が、それぞれ自分の敷
地に柿やざくろ木々に埋もれるように建っています。家々には葡萄を這わせ
た蔓棚の下に花壇があり、プライバシーはざくろや杉のていねいに刈り込ま
れた高い生け垣で守られています。

 吉田、洲島、黒川、高山、高滝の各村以外に、木立のなかから納屋の茶色
い屋根が頭をのぞかせている村落がこの平野にはゆうに五〇はあるのを、な
かを通ったり、そばを通りかかったりして数えました。どの村も村の神さま
の名前を記した白い幟を立てる、高さが三〇フィート[約九メートル]を超す
柱が二本あり、祭りの日にはそれを立てます。木々のあいだから見えるその
数から判断すると、半分以上の村で現在祭りが行われているようでした。太
鼓の単調な音があたりに満ち、女の子はみなたっぷりとお化粧をしています
。村の神さまを表す大きな提灯がどの家の軒先にも吊り下げられ、夕方から
の照明に備えています。わたしが養蚕のようすを見学した吉田の村、なかで
も最も美しく豊かです。ただしそこですらみずからの手で働いていない者は
男も女もいません。またおとなが半裸の姿でいるのは山間の村と同じく一般
的なこととはいえ、子供たち、とくに女の子は絹地の着物で盛装し、緋色の
ものをいっぱい身につけていました。

 耕作方法にはなんの差異もみられません。吉田は豊かで繁栄しているよう
に見え、沼は貧しくみすぼらしいものの、山腹から救出された沼のわずかな
農地は吉田のそれと同じようにすばらしく整然と手入れが行き届き、完璧に
耕されています。また日当たりのいい米沢の平野の広い農地と同じように、
気候に合った作物をふんだんに産します。そしてこれはどこでもそうなので
すが「不精者の畑」は日本には存在しないのです。

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